人には1日や2日は忘れられない日があるものです。
1991年7月1日がその日です。この朝、夫婦共通の
友人である男性から

「遠藤さん人生がコロッと変わる、素晴らしい勉強会が
あるんだ、一緒に行こう」と誘われました。この一言が
私とSMIとの出会いでした。

会場に行くと講師の先生が紙を配り
「皆さん、10年後何になっていたいですか。どんな大風呂敷でもいいから書いて下さい」

私が考えるより先に、ペンがすらすらと動き始めました。『今、カーネギーホールで“愛の賛歌”を歌い終わりました。人種や言葉の壁を越えて、ブラボーの波が押し寄せてきます』

 講師の先生が
 「家に帰ったら、この紙を見えるところに貼って下さい。とにかく自分の夢をみんなに話すことです。夢は必ず実現します。!」「本当かな・・・」と思いましたが、胸の中にぽーっと暖かく、灯りがともったような気がしました。

                      ◇  ◇  ◇

 私が生まれた年に、父親は戦地へ赴き、戦死しました。母の子守歌は“愛の賛歌”。鈴を転がすソプラノは、今でも耳の底に残っています。その母は、いつもこう付け加えのを忘れませんでした。「歌い手の一番の晴れ舞台はカーネギーホールよ。」この8文字は、いつしか私の胸に刻み込まれました。

 11歳の時に亡くなった母の夢は、声楽家になること。祖父母の猛反対を受け、教師の道を選びましたが、カーネギーホールこそ母の夢でした。

 30歳になった時に、あるフォークグループの方と知り合いました。それから私はジャズ、軽音楽、声楽、演歌とあらゆる音楽の勉強を始めました。SMIとの運命の出会いはこの時でした。

 それから「カーネギーホール」という言葉が沸々とたぎってきました。名古屋の歌手の登竜門と言われるライブハウスの門を叩き、歌手への道を歩み始めました。

 ある日、私を応援して下さる方が突然自宅にやってきて「カーネギーホール・カーネギーホールって言っているけど、いったい何時になったら実現するのや」と。家族も言い出しました。「お母さん、60歳までにやらないと体力続かないよ」

こうした時、娘夫婦が話しを持ってきてくれました。出かけていって履歴書を見せると、
「あなたは音楽学校も出てないし、事務所にも所属していないけれども、カーネギーホールは世界のミュージシャンが憧れる音楽の殿堂よ」「とても・・・」でも、私、歌いたいんです。あの世にいった時に、お母さんに“歌ったよ”ってお土産話を持っていきたい、それだけなんです」

 しかし思いがけず、一週間後に電話が掛かってきました。それは「カーネギーの方が『前向きに検討してみる』って!」。

 アメリカはとても大きな国、心の広い国でした。当日は、満員のお客様の前で、私は心ゆくまで歌わせて頂きました。父と母の遺影を最前列に置いて、心ゆくまで。“愛の賛歌”を歌い終わると、人種や言葉の違いを超えて、ブラボーの波が押し寄せてきました。

                      ◇  ◇  ◇

 その後私は恩返しにと「生涯で100回の福祉施設でのご奉仕ライブ」を目標に決め、昨年の2月に達成しました。その後もライフワークとして続けて、150回くらいになりました。もちろん営業活動の合間ですが、刑務所、病院、特養、ケアハウス、精神病院、小・中・高等学校と公演・ライブ活動を続け、1回ごとに感動と勇気を頂いております。


NPO法人日本モティベーション協会『トータルパースン』誌 1月号より


〔パンフ表面〕



〔パンフ裏面〕





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